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お多福美人講座美しさは福を呼ぶ

大石忌 2

忠臣蔵のあらすじを一言でまとめるなら、

「仇討ち」

今の感覚ではピンときませんが、明治6年までは日本では敵討ちは合法。

あらかじめ願い出て許可を得る必要があったそうですが、許可があれば人を斬っても合法です。

斬りかかられて、逆に斬り返しても罪に問われないところも江戸時代!

「日頃から武術の研鑽に励むべし」

ということなのでしょう。

 

忠臣蔵では、

「将軍様がいらっしゃる殿中で赤穂藩の浅野内匠頭が刀を抜いて

吉良上野介に斬りかかったものの抑えられ、

浅野内匠頭は切腹

吉良上野介はおとがめなし

ということに納得のいかない赤穂藩の武士たちが、

吉良上野介を雪の降る中討った」

ということなので、厳密に言えばほんとに「敵討ち」かなぁ?

というところがあるのです。

 

芝居では、高師直(吉良)が塩谷判官の奥さんに横恋慕をしたことが原因になっていますが、実際はよくわかっていないそう。

 

幕府が決めた処遇に不服を抱くということは、敵討ちではなく逆ギレ

という捉え方をされた場合、

赤穂浪士(四十七士)=忠義の士

ではなく、

殿中で刀を抜いたボンクラの殿様と、

当然の処罰を恨みに思う逆恨みの家来である赤穂浪士こそならず者になるというわけです。

何度か観たり話を聞くうちに、

「だから、赤穂浪士は悪者って言う人がいたのね」

でも、芝居の中では、善=四十七士、悪=高師直

と、頭の中が整理されました。

 

私が一番引っかかったのは、

一人のお殿様の恨みを晴らすために、少なくとも四十七人は切腹になるということがわかっていて討ち入りをしたということ。

今の世の中では、(実際の扱いはともかく)、一応人の命は等しく重いことになっています。

殿様のために女房子供を捨ててまで敵討ちをして、

それを家族も後押しする場面などは、

「私、何かまちがえて観てる?

仇討ちに加わるために実の妹を殺そうとする?

妹も命を差し出そうとする?」

と、ずっと話の解釈をまちがっているんじゃないかと落ち着きませんでした。

「どの辺が面白いの?全然意味がわからへん!!」

という状態になっていきました。

芝居では、塩谷判官(浅野内匠頭)が、

今はのきわに「敵討ちしてよ、絶対」

というようなことを大星由良之助(大石内蔵助)に言うので、

「そんなことお願いしないであげて欲しい」

とも思っていました。

 

内蔵助は、息子の良金(よしかね)通称主税(ちから)、

芝居では大星力弥(おおぼしりきや)も一緒に討ち入り。

内蔵助の奥さんは夫も息子も亡くし、主税の許嫁も嫁ぐ前から後家になり、

残された女は誇りのみを胸に、残りの人生を生きていかねばばりませんでした。

おそらく昔はこんなことがあっちこっちにあったのだと思います。

 

記録では、生きている間に浅野内匠頭が家臣に会うことはなかったそうなので、

敵討ちは頼まれてやったわけではないはずです。

でも、仇討ちなどせずに、家族を幸せにしようにも、

「主君の仇さえ討たない不忠義者」という烙印を押されたら、

生きていても家族を幸せにすることが不可能な時代だったのだろうとも思います。

美徳と犠牲は、昔は常にセットだったんだなと思います。

 

敵討ちを託された大石内蔵助が、

「敵討ちなんて考えてませんよ〜」

と見せかけるために毎夜お茶屋で遊んだというのが、

芝居では「七段目」に出てきて、そこが一力。

 

実際、内蔵助が弾いたとされる三味線なども飾ってあり、一力にも通っていたのは

間違いないのですが、伏見の方に馴染みの店があり、主にそこに通ったそうですが、

戯作者が芝居の舞台に選んだのは一力でした。

 

どうでもいいことですが、目隠しをした由良之助が

「由良さんこちら〜、手の鳴る方へ」

と言われて女子衆を捕まえようとするのを見るたび、

「本当に昔はあんなことして遊んでたんだろうか。

どのあたりが楽しいんだろうか。

ドラマで銀座のクラブでのホステスさんが

ス〜さんお久しぶり〜、会いたかったぁん❤️

とか言いながらしなだれかかるけど、

実際にそんなシーンは見たことがないのと一緒で、脚色なんだろうな」

と毎回考えてしまいます。

 

大石忌奉納の舞は、井上八千代さんと三人の芸妓さん。

「深き心」

「宿の栄」

という地唄で、年に一度大石忌の時しか舞われることがないそうです。

 

時代によって、人の一生は様々。

正しい、間違っているなんて言う判断を下さずに、

その時を懸命に生きた人の思いを感じようとすればするほど、

その一生を左右するのが、その時の世間の価値観ではないかと古典を見るたび思います。

今の時代からすれば、

「もっと他にも選択肢はあるんじゃないか」

と思うようなことも、その時代を生きた人にとっては、

「こうせざるを得なかった」

ということなんだと思うのです。

 

今年の大石忌は、改めてそんなことを思う日でした。